中世前期における都市ケルン
*論文の読解・感想などです。内容はあとから付加的に練り直してゆきます。
向田伸一・池谷文夫
「中世前期における都市ケルン」
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)44号、1995年。1-17頁
はじめに
これまでの西欧中世都市研究を、1.古代末期から中世盛期までを「都市のない千年」と想定する、2.「都市領主と都市市民、都市と農村を対立的なものと捉える」ピレンヌ以降の社会経済史的研究が主流を占めてきたと見なし、これに対比する形で特に70年代以降の研究の潮流を、「都市を周囲の農村との関係の中に定置し」その際「都市領主は都市と対立するものではなく、都市形成に関して促進的役割を果たす」と見なしている、とする。
そこで本論で「旧来の研究のモデルとされてきた」ケルンを対象として、「新たな中世都市像をイメージする」ことを目指すという。その際の考察方法は以下4点に分類される。
古代中世間の連続性の問題
ケルン大司教の都市形成における促進的役割
祭祀的・経済的中心地としてのケルン
ライン郊外市の形成過程
感想
まずこの西欧中世都市研究の流れの大枠が、論者の見立てどおりであるかどうか。
特に「これまでの」研究がピレンヌ以降の社会経済史的研究と言えるのかどうか。
また70年代以降の研究がそもそもピレンヌ的な潮流と対立するものであるのかどうか。
「これまでの」研究が「古代末期から中世盛期までを「都市のない千年」」と考えるのかどうか。
あるいは「都市領主と都市市民、都市と農村を対立的なものと捉える」といえるか。
都市領主の役割は否定的に考えられていたかどうか。
1. 古代中世間の連続性の問題
論者はウビー人とローマ人の協力の下、ローマ帝国的な自治都市かつゲルマン的な(のちにはローマ的な)カルトの中心としてケルンが成立したと論述する。さらに「紀元1世紀末から2世紀はじめにかけてキリスト教が伝わ」った。「異教の聖地は…殉教者の墓地となった」。ケルンは「持続的吸引力を持つ祭祀中心地」となった。3-5世紀にはゲルマン諸部族とくにリブアリアとの関係により混乱が生じたという。この混乱時期に「ケルンを都市的居住様式に引きとどめ、都市的居住の慣習づけを作り出したのは司教と聖職者である(11)」という。論者によると「…政治的リーダーシップを発揮した大司教はケルンにおける都市的要素の維持に貢献しており、ここにおいても都市生活の連続性は明かである」。
さらに論者はケルンの経済生活においても連続性を見出す。例としてはガラス製品輸出、建築活動を挙げる。
一方「自治行政」については連続性を認められないとする。その理由を「中央から派遣された財政監察官と護民官の設置によって」終焉を終えたのだとする。「しかし」と論者は言う、「諸都市の都市自治崩壊を国家権力の厳しい干渉に起因させるのは、ケルンのような帝国国境沿いの繁栄している都市に関しては問題である」。それまで都市行政を担っていた富裕層は都市を退去したりしたが、「それでもなお都市内に富裕な人々が存在していたこと」が伺えるためであるという。また「身分の低い民衆」もまた「年の本質的な指標として無視されてはならないであろう」という。そして論者は6-8世紀の諸王の事績から、ケルンが決して都市として放棄されたわけではないと読み取る。このことを論者は「最近の考古学的調査によって裏付けられる」とする。土器の出土状況や都市内集住の様子を、「これまでの説を肯定するかのようであるが」もしくは「地誌的移動を経験しながらも」という条件があるにもかかわらず主張する。
論者は数々の要素を挙げた上で、「ケルン都市生活の連続性をも示唆し得るものと考えられる」と結論付ける。
感想
なによりも論者は「都市生活が存続した」という前提の下に諸要素を挙げていると読み取れる。確かにケルンの集住性は挙げられた諸要素から保証されうるだろう。しかしそれは「都市の存続」を示すだろうか。そもそも「都市存続」とはいかなる概念なのか。それは都市消滅を除くすべての集住存続を包括する、曖昧な概念ではないのか?メロヴィング朝期の土器出土数の少なさ(4頁以下)や集住の地誌的移動の確認(5頁)といった事象は軽く省みるにとどめるべきものだろうか?
何よりも、論者が主に経済的要素と宗教的要素を軸に都市存続を主張するこの節において、論述したその結果は論者の言う「これまでの研究の潮流」が示した姿とどの程度ことなっているのだろうか。
2. ケルン大司教の都市形成における促進的役割
論者は時代を下って10・11世紀の「政治的安定期」にもケルンの果たした役割は大きかったとする。特に王弟である大司教ブルーノの治世を取り上げる。論者によると「都市発展の第一局面である都市領主の時代は、彼の時代に基礎付けられたといってよい」。「11.12世紀にケルン大司教が享受した地方領域の領主権は大司教ブルーノの時代に置かれたようである(29)。一通の特許状も存在していないが、大司教権威のある側面は確立され得た」。
論者はさらに「政治的、裁判的権威も大司教に譲渡され」、その領域が周囲のグラーフのブルクバン領域を侵食していったと見る。そしてこのような「都市と農村を包括し、都市にいかなる特殊な地位も承認しないフランク族のガウから都市裁判官区を治外法権とする事は、ケルンの都市的な特殊な発展の重要な印である」という。「都市は独自の裁判官区となり、そのことは当時において特別な行政区であることを意味していた」ともいう。
感想
まずブルーノの時代における大司教の地位や大公位の付与といった事跡と、のちの12世紀におけるそれとの直接的な関連は、かならずしも自明のものではない(Groten 2001)。そのことは論者が述べるとおり「一通の特許状も存在していない」ことからも留保されるべきと考える。
そして裁判権力に関して。もともとガウグラーフの裁判領域が都市を含むものか、それとも原理的に排除するものであったかどうかについては知識がないが、周囲の農村部分を含む都市の領域が独自の裁判領域を形成していたという点に関しては、ケルンに限らず…少なくとも中部ライン領域においては一般的なことであった(たとえばNikolay-Panter 1976)。そもそも都市が国王直轄の裁判領域と認識されていたのならば、論者の言うケルンの「特別な行政区」であった事実をより明快に説明するにすぎないし、この「国王直轄」という視点はたとえばコブレンツでも見られる可能性が高い(Böhn 1993)。中部ラインでは、都市と農村が異なる裁判領域を形成していた、という可能性はそもそも薄いのではないか。そうなると、ガウグラーフの裁判領域がそもそも「都市を特別扱いせず」周囲の農村領域と共にこれを管轄していたという見方のほうが妥当であり、また矛盾しないのではないか。その意味で論者の言うとおり「ケルンは特別な地位を得ていた」のであり、その意味では周囲の領域と明確に区別されたのではないか。
論者は「ケルンの特別な地位」と「周囲の農村領域を含む影響圏」をともに追いかけて、論内で両者を矛盾させているように読み取れる。
3. 祭祀的・経済的中心地としてのケルン
「一般に司教区内の下級中心地は教区であり、諸集落はそれに含まれる限り、教区強制の中心地であった」という文章から論者は始める。つまり集落住民はその意味で聖職者と結び付けられていたと。論者はここから、教区に対する聖職者の行為をひとつの紐帯機能と見なし、聖職者の機能について論述してゆく。
特に(第一節と明らかに矛盾する説明のしかただが)「12世紀以前のケルン経済は自給自足的な農業経済であり、経済制度は古典荘園制であった。この経済制度において、都市在住の教会組織による市外での土地所有が中世初期においてはことに重要であることが理解される(47)」という。経済要因の重要な担い手としての聖職者および教会組織という捉え方をしていると読み取れる。以下、論者は教会組織の経済活動についての叙述を行う。そしてこのような教会の経済活動が、都市をいわば“都市化する”、つまり周囲の農業地域と対比されるような物流の中心地としての役割を強める作用を果たしたとする。
感想
この論述は奇妙である。なぜなら論者のこの小節に限っての論を読解するならば「12世紀以前のケルン」は農業経済に立脚した集落、つまり農村であるということを意味しえるからである。とくに教会組織の経済活動が都市に与えた影響という点について過度に述べることは、12世紀以前・以後の都市の性格を明確に対比するという印象につながるものであると考える。この小節は明白に第一節の論述と、論旨の上で矛盾していると感じる。都市が存続したとするならば、12世紀以前にもそのような「物流の中心地的かつ周囲の荘園を始点とする経済システムの中に位置する都市」というものが認められることになるわけだし、事実第一節ではそのような叙述を論者が行っているにもかかわらず。経済活動における教会の役割の過度の強調は、叙述の仕方によっては都市連続説を危機に陥れるのではないだろうか。
4. ライン郊外市の形成過程
論者は本節では「聖マルティン地区の形成過程における彼(Furukawa注・大司教ブルーノ)の推進的役割について述べる」とする。聖マルティン地区はいわゆるライン郊外市を形成しており、中世都市史家(たとえばEnnen)によって中世都市共同体形成の重要な始点となったエリアとされている(はず…Furukawaはこのへん不勉強です。)
ローマ期には聖ラウレンティウス教区内にユダヤ人地区や市場が存在し、古い市場の中心となっていたという。大司教ブルーノは都市壁の外側、後のライン郊外市に大聖マルティンを建立し、このエリアの市場に貨幣鋳造所を建立したという。その後ライン郊外市はケルン市場の中心として発展した。
論者はここで、ライン郊外市の内部のUnterlanの裁判管区についての叙述をおこなう。なぜならば、ここの裁判権力の行使者は、Unterlanの家共同体Hausgenossenschaftであったと論者は言う。彼らの指導者は教会従属民であり、「宮廷に仕えるHofleuteとして…富裕化し、社会的声望を得、政治的勢力に上昇したと推測される」からであるという。Unterlan以外のライン郊外市はさほど富裕ではない、中・低位の商人層から成っていたという。論者はライン郊外市では11世紀の時点ですでに富裕層と被支配者層が形成されていたと見るのである。この富裕層から参審人団が輩出された(73)というのである。
おわりに
以上の考察から、論者は「本稿によって描き出された中世都市ケルンは従来のイメージとは大きな隔たりがあるといわねばならない」、「旧来の学説では中世都市には古代からの連続的要素はみとめられないとした…が、…その連続性はガラス工業の存続…(等)から照明される」とする。ただ一点、都市の自律性については論者は連続性を認めない。「中世都市は古代都市そのままの再現ではない」。
その後の大司教の役割の重要性について論者は再度述べ、彼によって「中世初期のケルンは祭祀的・古典荘園制的中心地として定礎された」ことが示されているという。「従来主張されてきた遠隔地商人主導による1074年の蜂起という学説はその根拠が弱いものとなる。つまり…ライン外市南半分は11世紀後半にようやく安定した土地となり、その地に定住したばかりの遠隔地商人が蜂起の際に全市民を統括・指導することは考えにくいからである」と結論付ける。
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