司教と中世都市
*ドイツ語論文の概要読解・感想などです。内容は適宜追加してゆきます。
Ennen, Edith
Bischof und mittelalterliche Stadt. Die Entwicklung in Oberitalien, Frankreich und Deutschland.
in: Ders., Gesammelte Abhandlungen zur europäischen Städtewesen und zur rheinischen Geschichte II. hrsg.v.Dietrich Höroldt u. Franz Irsigler, Bonn 1987. S. 40-52.
概要
上イタリア、フランス、ドイツにおける「司教と都市」の関係は、それぞれ異なった様相を示している。各地域における所与の条件が異なるため、それに応じて両者の関係も異なったものになった。前2者に比較しての、ドイツ内での司教区ひとつあたりの大きさ…言い換えれば司教の少なさ…は、特に上イタリアにおけるひとりの司教・ひとつの都市、といったモデルとは異なった姿を示す。上イタリアにおいては一つの都市が司教・都市住民のみならず世俗の権力者をもはやくに取り込むこととなった。他方ドイツでは、権力の源泉の多くがラント、すなわち農村部において保たれることになった。論者は上イタリアの状況を一つの背景として、フランスとドイツにおけるその様相を比較しようと試みる。
(上イタリアのケース)
イタリアの司教はゴート時代のはやくから、都市におけるキリスト教徒の指導者としての地位を固めていた。しかしランゴバルト時代にその連続性には穴が開く。ランゴバルトの支配者たちもまた都市にその居を定める。以降、イタリアの世俗権力者は司教とともに都市に居住し、都市内の覇権は両者を含む形で争われることになった。もちろん上イタリアにおいては、ドイツ人支配者の干渉という要因が影響する。ドイツ人支配者はドイツ内と同様に、上イタリアにおいても都市における司教の特権を保障した。
では上イタリアにおいて、都市は周囲の農村部とは異なった制度・法領域となっただろうか?G.Dilcherはこのように問い、いわゆるdistrictus=Gerichtsbannの概念を援用することによって然りと応えた。ただしディルヒャーは周囲の農村部にはまだなお多くの世俗権力基盤が残存していることを強調しているが。H.Kellerもドイツ人支配者の与えた諸特権状が「周囲の世俗権力の侵食から都市域を確保する」作用を果たしたと考えた。論者もまたこの考えを支持するが、上イタリアにはドイツとはことなった前提条件が存在したとする。すなわちconcivesの存在である。すでに10世紀初頭には、この中間団体による司教の政策への干渉・共同作用が認められる。これはドイツに比較して早期のものであるという。そして彼ら世俗集団のもとで、文書主義や貨幣流通経済がはやくにはじまっていた。司教は彼らの同意なしの無制限の権力行使はできなかった。そして周辺の世俗貴族は次第に都市内にその拠点を移し、イタリアにおいては司教・市民・貴族といった支配層が相互に、都市内で、覇権をきそうこととなった。
(フランスのケース)
F.Prinzによるならば、ガリアでは6世紀末にいたるまでガロ・ローマ人貴族制のひとつの表出としてのメロヴィング的司教制が存続した。彼らは政治エリートとして強固な自立性を保っていた。しかし、特に南フランス領域ではこのふるいセナトール的体制が次第に衰えた。特に市内に居住していたcomitesがその姿を消し、司教は都市を守るために都市壁の建設を開始した。ゆえにガリアの都市は聖なる都市であり、司教がその支配者となった。司教支配の下で都市住民はその経済力を増大させ、流通が活発となる。司教も、また都市住民も、都市周辺の農村部に領地を得たり経済支配を強めることになり、フランスでは都市を中心とした、司教による強力な周辺支配が成立した。
フランク・ブルグント時代には、司教は世俗権力者の強力な干渉にさらされることとなった。司教支配は動揺させられた。
そしてカロリング期以降、ドイツとフランスの展開に差異が生じる。フランスにおけるケースを詳細に論じているのがReinhold Kaiser, Bischofsherrschaft zwischen Königtum und Fürstentümerである。ルートヴィヒ敬虔帝のもと、司教の権力基盤のために都市内に聖堂イムニテートが作られた。このイムニテートの支配者として、司教は不自由民のゲリヒツヘルとなった。また彼らは単独で、あるいはグラーフとともに市場権・貨幣鋳造権・流通税権を確保した。
カペー期には司教は国王だけではなく、周囲の世俗貴族との覇権争いに身を投じた。このとき、国王・貴族が都市内に居住するという現象が生じる。彼らあるいはその官職保持者の存在のため、司教の都市支配は大幅に停滞した。たとえばノルマンディー司教都市のケースでは、バイキングの攻撃によってこれらの司教都市は多かれ少なかれ孤立し、大公の支配下に置かれるに至った。もちろん、いくつかの地域では司教がその都市支配を勝ち取ったケースもある。ランスやボーヴォワでは司教はcomitatusを買い戻すことにより、都市支配権を再び獲得した。これはドイツの展開に近い。
結果として、フランスでは多くの場合、司教はコムーネの敵対者となった。しかし既にコムーネは大幅な自律活動を始めていた。コムーネが上述のcomitatus等の支配権を握った場合、司教が都市に持つ権利は制限されたものとなった。
(ドイツのケース)
ドイツではオットーネン・ザリア期に帝国教会体制が成立した。諸王権は一貫してこの政策を保ち、ドイツ司教は王権の支配の道具としての機能を果たした。それと引き換えに、司教は都市における大幅な特権を認められることとなった。ドイツ司教の場合、その任命は当初もっぱら外地人、すなわち地元の司教区から出たものではなかった。しかし叙任権闘争ののち、司教職は地元の高位貴族層から輩出されることになる。都市は固有のゲリヒツバンを形成し、おそらくは司教の任命したブルクグラーフによって管轄された。一般にマース・ライン・モーゼル間では、司教はグラーフの権能を獲得した。またエルベ川より西側では司教による都市建立の動きが見られる。以東ではその役割はもっぱら世俗権力者が担った。
ドイツにおける司教と都市の関係について詳細に語るために、論者はケルンとトリアのケースをとりあげるとする。両者の特徴を対比的に説明するに、前者は多くの都市をふくみ、その地勢によって経済発展の容易なひらけた土地である。後者は山と谷からなり、モーゼルはラインに比べてその通行性に制限があり、結果としてはやくから発展した都市はトリアとコブレンツしかない。両者は「多都市エリア」と「少都市エリア」と特徴付けられる。
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